こころにさわやかな風がふくとき。言葉との出会い。

7/22/24

雑感

 

情熱色のペチュニアは 暑さを味方に 元気いっぱい。わたしは はやくもバテ気味で 「暑いよ~ しんどいよ~」と ぼやき節。

そんな折 ある出会いに こころがリフレッシュしたんです。

出会いって ヒトやモノとは限りません。

今回は こ・と・ば。

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日々 朝日デジタルのコラムをたのしみにしています。

それは 『折々のことば』

哲学者:鷲田清一氏(1949年生)が 古来の名言から SNSのつぶやきまで さまざまなジャンルの さまざまな「ことば」を紹介し 思索をめぐらすというもの。

先日は このような内容でした。以下 引用します。7/19の記事から
   
詩には、うまいのと、へたなのが、あります。でも、詩を書きたいという……思いには、うまいも、へたも、ありません。(松下育男) 
   ◇
 「それ自身の中で、精一杯な、だけです」と続く。「精一杯」という、この表現につかまった。自分のことが自分で抱えきれない、こなしきれない、引き受けきれない、そんな私の思いというより、書かないでいられないという思いでいっぱい、いっぱいという感じ? 詩が切羽詰まっている。詩人のX(旧ツイッター、7月9日付)から。

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詩人:松下育男氏(1950年生)の「思いには、うまいもへたも、ありません」というフレーズに いたく共感させられました。書きたいという思いに うまいもへたもない。ブログだって そうなんじゃないかしら。

いったい どんな方なのだろう。もう矢も盾もたまらず SNSまで追いかけていきました。

結果 投稿されている文面に ぎゅっとこころをつかまれてしまい 迷わず フォロー。ちなみに わたしにとってのXは もっぱら情報収集ツール。発信はしていません。

松下氏の こんなことばにもひかれました。以下 引用します。7/15のXから。

自分がどれほど幸せかを測るのは難しい。
預金残高では測れない。寿命では測れない。友人の数では測れない。権力の大きさでは測れない。
僕が思っているのは、感動の量が自分の幸せに比例しているのではないかということだ。

感動の量が幸せにつながるって なんてステキなとらえ方でしょう。

個人のもつ幸福感は 主観的なもの。一般的に見て 幸福かもしれないというような価値基準は あくまで 他者のもの。自分のなかには 幸福を測るものさしが確固としてあり それは 感動の量なのだ・・・そういうことかな。

感動の数が多ければ多いほど 幸せを感じられるって わかるような気がします。

たとえば ネガティブなことにさらされて ストレスフルになっていたとしても ちょっとした何かがあって 生き返るような気もちになり 「やっぱり 自分は幸せだわ」と想ったりするんです。そういうときは その何かに感激したり 感動したりしているの。

松下氏のことばに こうして感銘を受けたりすることも 広い意味では「感動」の枠に入るかもしれません。

感激 感銘 感動。こころを動かされる深度は異なるにしても そのときの自分には ここちよい風が吹いている。魂を揺さぶられる風であったり 華やぐ気もちになる風であったり。

そして

「感動の量が自分の幸せに比例しているのではないか」そのことばを読んだわたしには さわやかな風が吹きました。

他者の価値観にじゃまされない 自分だけのものさしをもつ大事さを再確認した感じ。

アサガオの種をまいたら 芽が出たと感動し ドラマを観て 「あぁ 人生って素晴らしい」と感動する。あるいは 旅に出て 美しい風景に感動する。

ささやかな感動から深大な感動まで こころをふるわす体験を これまで どれだけしてきただろう。

そして これからの人生では どれほど感動していけるだろう。

そんなふうに想ったら それだけで幸せな気もちになりました。

生きている限り 感動することはできるのだもの。たとえ 寝たきりになっても あるいは 認知症になったとしても こころはなくならないって想うから。

何に感動したって いいんです。要は 自分にとって感動をもたらすものに気づけるかどうか。

何気ない日常の中で 感動のタネを見つけながら暮らしていきたいな。

No.196

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